コラム『いのちある人間』を起点とする視座を科学・技術分野に!

サイエンスポータル掲載

男女共同参画学協会連絡会 第9期運営委員長、東京大学 名誉教授 跡見 順子
(掲載日:2012年10月19日)

男女共同参画学協会連絡会(以下「連絡会」)は、理工系分野の男女共同参画を進めるために2002年10月に設立された団体で、現在は72の学協会が加盟 している(注1)。2011年3月11日、東日本が未曾有の大災害に襲われた時点で、筆者は連絡会第9期運営委員長であり(日本宇宙生物科学会男女共同参 画委員会委員長、生態工学会幹事も)、内閣府の男女共同参画推進連携会議ポジティブ・アクション小委員会委員を兼務していた。

連絡会の大きな役割の一つに、国に対する提言・要望書活動があり、3.11時点の委員長としてその実行は自分の任務であると決意した。そして1年間の議論の末、「今こそ、科学・技術分野に多様性を-男女共同参画の加速に向けての要望-」と 題する要望書をとりまとめ、オブザーバー6加盟学協会も含めて41団体連名で、2012年3月26日、各界に送った。要望書では、東日本大震災・福島第一 原発事故は、わが国の多くの分野のさまざまなシステムが見直し・再構築を必要としていることを指摘し、「特に科学・技術分野においては、専門性を超えた多 様な観点、いのちある人間を起点とする視座で、持続可能な未来に向けたイノベーションが求められている」ことと、その推進と実現のために男女共同参画の加 速を位置づけ、第4期科学技術基本計画および第3次男女共同参画基本計画を踏まえた男女科学研究者・技術者の環境整備を、国に対して強く要望した。

本稿では、この要望書をまとめた連絡会の第9期運営委員長として、その背景と意義について、昨年2011年10月31日に開催した第9回連絡会シンポジウムの内容(日本学術会議編集協力・日本学術協力財団発行「学術の動向」6月号特集2参照)をも踏まえて紹介する。

  1. 震災と福島原発事故:1個人として、理系科学者としての起点を問うべき

    科学の方向性、科学・技術の基盤が問われている。3.11の未曾有の東日本大震災、そして、それに引き続く人災であると言える福島原発事故を経験し、1年 半が過ぎようとしている。各種調査会の報告は、当事者の責任の追及に終わっているものが多い。しかし、本当に当事者だけの問題なのだろうか。類いまれなる 日本列島の豊かな自然は、同時に、百年ごとに大地震をもたらし今回と同じ規模で数万人のいのちを奪ってきたのだった。

    なぜ科学・技術分野はその史実を共有し、真正面から向き合うことができなかったか。一人ひとりの科学者は、自らをその起点に身を置いて、自分自身の科学や生き方も含めて、真摯(しんし)に向き合う覚悟をする必要がある。しかし、その起点とはどこか?
  2. 科学・技術分野の基盤の見直しを!- 先端科学基盤からの「いのちと健康」

    2011年学協会連絡会女性比率調査報告が示す加盟学協会内での女性比率はわずか1%増であり(連絡会HPグラフ3)、しかも会長・副会長、理事・幹事、 評議員・代議員など、意志決定の立場にある女性の数は極めて低い。現場の問題に敏感な女性たちが、さらに巨視的かつ根源的に「いのちを紡ぐ存在」として自 らを位置づけ、遅々として進まない日本の男女共同参画「2020年30%目標」(「社会のあらゆる分野において、2020年までに、指導的地位に女性が占 める割合を少なくとも30%程度とする」という目標。2003年6月男女共同参画推進本部決定、第3次男女共同参画基本計画(2010年12月閣議決 定))達成に向けた抜本的な解決策を提起することが必要である。

    連絡会シンポジウムをまとめるにあたり、人間の近未来のQOL(生活の質)を考えるときに避けて通れない高齢社会と女性の問題を探ってみた。世界一長寿な 日本人女性も、内実は75歳以上から女性介護者数も徐々に増加し、85-89歳で5割、90歳以上では7割の女性が要介護となる。85-89歳での比率の 男子との差は約1.5倍となるが、90歳以上になるとその差は逆に無くなり男女ともそれぞれの年代の約7割が要介護である(実数は女性が男性の3倍で68 万人)。

    健康でない(完全に自立していない)期間は、年々開く傾向にあり、女性(12-13年)は男性(約9年)より長い。このような現実を女性科学者自身、どう 受け止めるのか。人類の寿命はこの半世紀で2倍に延伸し、私たちは近い将来、1世紀100年以上の時間を生きることになる。ところが国も科学も教育もこれ に対して全くの無策であり、アルツハイマー病になるのは仕方がないと決めてかかっている。

    加齢や病態を必然とし、事が起こった後の対策の方法に膨大な科学予算が充てられている。小学校から大学まで、自分の、人間の生命の本質や人間の本質が教育 や研究の対象になっているのか。わが国の理系的な学問は、「生身の(生物、動物としての)人間」を除外して発展してきた。人間が扱われているのは人文系の 研究領域や文学の中だけで、生活習慣病は本人のせいとされる。この奇妙な科学技術立国とは、一体どこを起点としてきたのか。

    人間は、重力場で創発し進化してきた生命の末裔(まつえい)であり、かつ吉川弘之・科学技術振興機構研究開発戦略センター長(元東京大学総長)が言う「人 工物」を生み出す存在でもある。治療のための再生医学、うつ病やアルツハイマー病の治療のための脳科学、介護のためのロボット工学ではなく、1世紀以上の 時間を生きようとしている生物(動物)であり、かつ人工世界を生み出した人間を、科学の俎上(そじょう)に載せる科学領域創成が必要だ。

    生命の単位である細胞の生存原理は活動依存性である。脳は出力依存性に自らを構築する。人間は強靱(きょうじん)であるが、生存範囲はきわめて狭く、ホメ オスタシス(注2)が成立する範囲内において、ファイン(繊細)で精緻な機構が発現する。温度やpH(水素イオン指数)などの化学反応条件、力学的条件ま でを含んだホメオスタシス範囲内における生体応答性をみた科学研究はほとんどない。

    また、モデル生物と人間との違い、特に力学的な応答戦略を比較検証した研究はほとんどない。バクテリアや植物と同じように硬い細胞壁を持つ単細胞・酵母で 確かめられた真実は、タンパク質(コラーゲン)でつくる弾力性を持ち、伸縮系で、揺らぎの中で力応答するタンパク質から成る身体を持つ人間の真実であるの だろうか。差はゲノムの大きさだけでなく、力学的なつくりが全く異なるのである。

    DNA二重らせんの発見以来、ますます要素還元的な方法論が進み、生命科学と脳科学領域の間にも大きな溝ができてしまった。日本の科学・技術分野を担う工 学領域では生命科学の教育が欠落し、いのちある人間の本質を学ぶことが必須であることさえ了解外だ。大学入学以前の早い時期に文理を分けた、おかしな日本 の教育システムには疑問の声さえ上がらない。

    私たち人間は、科学の空白領域、つまり旧来の医学と基礎科学の狭間で生きていることに気付いてほしい。日常を生きる自分たちの科学が存在しないのである。 こんな恐ろしいことはないではないか。自発的に努力し学習する人間を支えるのは自然が生み出した生命環境・身体であり、その制御主としての脳構築のルール を見いだす科学・技術領域は必須である。

    その領域を構成する重要因子として、細胞の適応の現場に必須なストレスタンパク質がある。この研究分野でさえ、病気の治療との関係で先端的であるが、タン パク質の構造解析は進むものの、現場を生きる身体や、その身体を現場として生きる細胞の大いなる適応との関係で評価する視点はほとんど皆無である。
  3. いのちを紡ぎ日常の現場を生きる女性の声、戦争を生き抜いた高齢者の声にも応える科学を呈示しなければならない

    人間の存在そのものを捉える視点を紹介したい。これは、要望書を出すに至った一つの背景である。「いのちある人間」と科学・技術を考える起点である。活動 依存性に仕組まれた自ら適応制御可能な生命のシステムと、百パーセントの想定ができない自然を対置させたときに、科学・技術分野をどう再構築するか、その 原点が問われていると言える。

    戦争を生き抜き、今なお柔軟な思考と行動で現役を生きる樋口恵子氏となだいなだ氏が、これらの人間と科学の問題の基本を提起している。「常識という非常 識」はいまだに日常生活に生きており人々を、特に女性を縛っている。根底にある問題は生きる現場、日常であり、生活をどのように科学で語り、日常をどう科 学に載せ行動するか、先端科学のイノベーションと結ぶかである。これは震災直後、多くの人々が指摘したことである。科学・技術が生活や生きること、そし て、いのちを救うことと解離しており、科学者がその事実に気づいていないことである。

    努力を実装する、生命のプロセスを教える科学があるのではないか。要介護にならず、生み育てる自身のいのちのシステムを理解するイノベーション科学が、全ての女性に、そして男性にも必要だ。
  4. 人間を生かす科学はまだ夜明け前

    人間を対象とした研究は、教育と表裏一体に成らざるを得ないことを教育学部で学んだ。遺伝子決定論ではなく、努力には意味がある、つまり生命システムが支 えていることを示す生命科学、つまり「適応生命科学」の背景となる生命科学や脳科学を、日本の教育学部で、コ・メディカル(医療現場で医師の指示の下に業 務を行う医療従事者、看護士、理学療法士、作業療法士など)育成過程で、それらは教えられているのか。

    日々自ら更新することができるのが、他の多くの動物と異なる人間の脳である。しかも、身体と直接関わる古い脳を巻き込んだ「自己」創成の基盤回路を、活動 が作っていくのである。自発的に維持しようとする回路はキャンセルされない。高齢者が仕事を失うことは、脳に蓄えられてきた情報を消してしまうことだ。生 涯をかけて培った脳を、年齢を重ねて増々発展させる生き方ができるよう、社会システムを組み直すべきだろう。

    子どもを産み育てる時間は、これらのいのちある人間のシステムをじかに学ぶ絶好のチャンスである。その期間を何らかのかたちで保証し、さらにそこで学んだ ことを自らの仕事に活かすことができるよう、定年制を一律にせずに方策をたてるべきだ。加齢も食も運動や活動も、先端科学とはほど遠い。生きている人間の いのちを具体的に生かす生命科学と脳科学、そして、その他多くの先端科学に連携することなしに、22世紀を生きる人間は救われない。人間を生かす科学はま だ夜明け前だ。
  5. 「いのちある人間」を起点とする、震災後の我が国の科学・技術推進イノベーションを実現するために

    生み育てる女性の生命と生活の場における「おおいなる学習」を、どのように科学として生かすのか。新しい方向性にどう組み入れるのか。公平な判断を“村社 会的しばり”で疎外し、先進国としては異常に高い自殺率(特に男性)が表している「いのちある人間」の生活の場での間違った考え方が、今なお根付くこの日 本を変えるのは、今しかない。

    「生身のいのち=身体が持つ可能性」を引き出し、自身を活かす科学・技術とは何か。それはつまり「汝(なんじ)をしれ」との古代ギリシャ、デルフォイの神 託にも刻まれている科学分野の創成、つまり生き物である自身の仕組みを知ること、人間として判断し行動する自身の判断や行動を、科学や教育の俎上に上げる ことである。

    典型として考えられるのは、古き日本やアジアの身体文化を科学にすること、要素還元論ではない身体を捨象しない科学、を対象とする新しい基盤科学である。 異分野の研究者が垣根を取り払い、互いの科学・技術を理解し合い、協調して新領域を創成する枠組みである。現在、そのような枠組みはまだない。いのちの原 点から広い視点を培ってきた女性が意思決定の場に参画すれば、この新領域創成が実現する。それには国を挙げての体制づくりが必須である。これが要望書で私 が伝えたかったことだ。

    超高齢社会における高齢者の活用、科学技術分野での女性の推進は世界的課題でもある。理系の実験系を模して、身体を介したさまざまなトレーニングや、その 実行のための理系技術のサポートを、訓練(教育)プログラムとして立ち上げることで、女性でも指導者に必要な訓練を受けることができるだろう。国連訓練調 査研究所(ユニタール)は、持続的人間開発のためのトレーニングを行っている機関であり、広島に事務所がある。ジェンダー平等推進と女性の地位向上もミレ ニアム開発目標の一つとなっており、ここに提案するという選択肢もあろう。

    しかし、自分たちの問題なのに、国連に任せないといけないというのか? その前に日本で、自分たちの手で、専門性を超えた多様な観点、いのちある人間を起点とする視座で、持続可能な未来に向けたイノベーションを、科学・技術分野からぜひとも実現しようではないか。

    連絡会は第11期に入り、科学技術分野の男女共同参画推進に向けた大型アンケートの第3回目が11月に実施される。これまでの施策の成果、男女共同参画の 現状と問題が浮き彫りになる大事な調査である。その結果を踏まえ、3.11後のわが国の科学・技術が推進すべき方向性を打ち出す提言とポジティブ・アク ションに期待したい。


(注1)  男女共同参画学協会連絡会:会員総数約48万人、女性会員約4万人、同比率約8%

(注2)  ホメオスタシス:内部恒常性ともいい、生き物では、内部環境を一定の状態に保つ働きを 持っていることをいう。多細胞生物では、細胞と身体の生命の両単位(階層)でホメオスタシスを維持する仕組みがある。身体の場合は、身体内の細胞が協力し て、細胞内外の化学反応条件であるpH、温度、浸透圧、血糖値などを一定の範囲に維持するのみならず、力学的にも元に戻そうとする仕組みを持っている。


跡見 順子(あとみ よりこ) 氏のプロフィール

茨城県筑波郡小野川村生まれ、東京都立駒場高校卒。1967年お茶の水女子大 学文教育学部保健体育学科卒、73年東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。教育学博士。東京大学教育学部助手、講師、助教授を経て94年東京大学大学 院総合文化研究科教授。この間、米カリフォルニア大学バークレー校動物学科・客員研究員、国立精神神経センター神経研究所遺伝子工学研究部文部省国内研究 員、スイス・ジュネーブ大学、米ノースウェスタン大学文部省在外研究員として遺伝子工学、分子生物学、分子細胞生物学を研究。2007年東京大学名誉教 授。 07-09年サステイナビリティ学連携研究機構特任研究員、09年からアイソトープ総合センター特任研究員。病気になる前に「自分のシステムを知ること」 から、120歳まで身心一体科学で元気に生き生きと寿命を全うする新領域創成の実現に向けて活動中。