東京大学における40年間の研究 〜2013年3月


過去5年間(定年後、駒場から本郷に研究拠点を移してから)

 未曾有の長寿高齢社会を迎え健康に関心が向けられている。一方、生活習慣病は精神疾患もふくめて増大し、今や高齢者のみならず若年者でも問題となっている。生活は便利になったものの生活する個々人の身心の健康を促すための科学は未発達で、健康食品や健康グッズなどが世に出回っているもののその科学的根拠は乏しいと同時に判断する科学・技術分野が育っていない。これまで、健康は、保健体育や栄養学の分野において、体力測定や生理学的指標の評価あるいは、血中の様々な代謝産物の値を測定し、異常値との比較により相対的に「正常である」(=「異常ではない」)などの方法で理解されてきたが、必ずしも科学的な根拠に基づいているものではない。現在、人間に関する学問は、主に人文系に位置づけられその人文社会学的特性について研究が行われているが、要素還元的な科学が発達する前は、その存在について身心をトータルに捉える努力が成されてきた(19世紀中頃まで)。身心二元論が優勢な西洋とは別に日本では身心一元論的な文化があり、身体が生きる『場』に注目した考え方や『身』という身心を分けない身体の捉え方が醸造されてきた。しかし現在、戦後の生活文化の欧米化や要素還元的な科学・技術の発達、教育により、従来の日本的・アジア的な科学の俎上にのらない対象はほとんど消え失せようとしている。

 私は、第二志望で入学することになった保健体育の分野で『人間の生物学』という本を紹介され、人間の中で見事なシステムが稼働していることを教えられた。それ以来、人間や健康をどう位置づけるか、どのような研究方法が可能なのか、を知るために様々な研究方法を学んできた。体育学、脳科学、生理学、運動生理学に始まり、生化学、生命科学の理論と研究方法を学び、定年前の7〜8年には高分子化学を研究対象にしている特定領域に参加し、人工物と生物が進化させてきた巨大分子との類似性や差異などを比較検討する機会に出会った。自分の問題としては、とくに生活の中で自らの健康維持に欠かせない衣類や食品を、従来の家政学や栄養学とは異なる生命科学をコアにした物質科学で位置づけ、『動く身体』、『適応する身体』、『生命の単位である細胞から説き起こす健康』、『直立二足歩行をする人間の運動』、『直立二足歩行を常態とするが故に不安定だからこそ制御が必要な身体を制御する脳から理解する身心』、などつねに、生命を創発した地球環境と生命の物質制御機構、人間にまで進化させた地球環境と人間の努力の背景など、生物である人間を規定する要因や背景を探る立場から問題を位置づける努力をしてきた。定年後の現在にいたる5年間は、そのような研究の位置づけで幸運にも共同研究が成立し、栄養的な研究として鶏卵の卵殻膜、衣類として身体に矯正効果を誘導するウェアのメカニズム解明、商品の評価・開発につながっている。その中で、素材の物性のさらなる研究が必要であることが明らかになっている。定年前の東京大学生命環境科学系における大学院においては、生命科学、細胞生物学基盤からの運動や身心の研究により十数人の大学院生に博士号を取得させてきた。それらの研究の特徴は、細胞や動物を対象とした研究ではあっても、つねに直立二足歩行を行うヒト、そして自ら健康への努力をする人間を念頭においた細胞生物学であり生命科学的研究であったことである。理学部出身の教員が多い東京大学総合文化研究科(教養学部)における他の理系の研究者との違いは、同じ手法を使ってはいても研究の視点が常に人間の健康を研究の出口にしていることであったと思う。運動の評価には「重力」を概念的に位置づける必須性から宇宙生物学、あるいは重力生物学、そして現在は「重力健康科学」を提唱している(実際に定年後「重力健康科学」のキーワードがはいった挑戦的萌芽研究があたっている(但し「応用健康科学分野」においてであるが))。定年後、運動を総合的に評価し健康科学フィールドを構築するということでヒューマノイドロボットと人体の運動の評価計測方法を、シミュレーションを交えて開発している教員とのコラボレーションを進めることを企図したが、そのコアとなる体幹制御については研究方法が未だ開発されておらず、現在独自に理学療法士や機器開発研究者たちと研究方法の開発を行っている。研究を、細胞や動物対象だけではなく、人間の身体全体の制御にも目を向けなければならないとの理解を得たのは、『太極拳を科学して欲しい』という親友からの依頼が直接の動機であるが、それは有酸素運動や筋力強化が主要なテーマとなっている健康・スポーツ科学の中で、転倒問題や腰痛あるいは膝関節症などの急増や自らの身体で経験してきた問題の深刻さが、重力場におけるバランス制御の問題を取り込む決心となり、それが上述した日本やアジアの身体技法とつながり、現在のウェア開発のコア概念となっている。

 この間、一貫してよって立つ研究基盤と位置づけてきたのが、生命の単位である多細胞動物の細胞の特性、接着、細胞の力発揮基盤である細胞骨格と細胞外基質などの生命の環境における存在形式の問題であり、もう一つが、エネルギー要求的に生存が可能な動物の代謝の問題である。後者に関しては、主にタンパク質から成る人の身体の健康は、タンパク質のホメオスタシス(プロテオスタシス)維持能力と直結しており、これは長寿遺伝子とも関係が深い。鍵は、身体の実質を創るタンパク質と、その生命体を継続的に維持させるために必須なタンパク質の一生をお世話するタンパク質であるストレスタンパク質(熱ショックタンパク質HSP、分子シャペロンともいう)である。そして概念的に両者をつなぐのが、上記の細胞の特性である接着や張力発揮などの動的構造の分子シャペロンとして機能しているαB-クリスタリン(低分子量ストレスタンパク質の仲間)である。この分子が現存するその意味、原型とその進化による変化を理解することで、単細胞生物から多細胞生物、ヒト・人間にまでつなげて理解することが、卵殻膜や機能性ウェアのメカニズム研究や開発研究の軸となっている。農工大渡辺敏行教授とのコラボレーションにより、αB-クリスタリンが発揮する細胞の力特性を動的かつ定量的に評価することができつつある。適応なしに生命の進化はない。そしてそのコア原理はまた健康のコア原理となる。それはこの地球環境における生命誕生の基盤とも関わるからである。生命をきわめて動的なシステムとしてとらえ、ホメオスタシス維持がなされうる状態、つまり通常でも30%の間違いをおかしているタンパク質製造工場は、その間違いをキャンセルする回路を動かす意志と修復系の実行が健康を保証すると考えるからである。

 定年後の研究業績は、卵殻膜関係では2011年に英文誌に1本、ウェア関係では人工知能学会への短報1本はあるが、多くはまだ学会発表の段階である。ただし卵殻膜の論文は、人工的基盤を利用し、AFMで表面構造を観察評価するなどのきわめて理工系的な方法を取り入れている天然素材の生物学的評価系を構築して認められた画期的な論文である。ウェア関係では特許の発明者のひとりとして特許出願中であり、卵殻膜に関しても3つの特許を出願した。ともに商品としては販売されており、評価は高い。


東京大学教養学部・大学院総合文化研究科時代

 主に文部科学省科学研費補助金のサポートにより、地上における”運動“や”機械的刺激”に対する生理学的・生化学的・細胞生物学的応答に関する研究を中心に行ってきた。つまり、すべてが宇宙生物学的・地球(重力)生物学的研究であると言える。その中でもとくに後肢懸垂モデルなど無重力環境適応機構研究モデルを用いた研究や、抗重力筋の萎縮マーカーのαB-クリスタリンと重力応答蛋白質システムであると考えられている細胞骨格(とくにチューブリン・微小管やアクチン:(11編))、細胞骨格及び細胞外基質に関する研究(7編)は1990年以降、遅筋とミトコンドリアに関する論文(4編)は1987年以降、個体のストレス応答制御に関するHPA軸に関する論文(4編)は1984 年から最近2007年に、鍵となるエビデンスを報告。具体的には、個体のストレス応答と有酸素代謝の背景をうみだす乳酸や糖に関する論文(8編)、個体の有酸素運動能力の評価あるいは運動刺激との関係での適応応答をみたもの(9編)である。一貫して重力への生体応答について、細胞と個体の両側面から現象と分子機構を解明してきた。これらの基礎研究から、“適切”に運動することは、細胞の基盤構造への働きかけであり、タンパク質のホメオスタシスをサポートするαB-クリスタリンを含むストレスタンパク質(分子シャペロンとして変性タンパク質を凝集・沈殿させない機能をもつ)は、個体の適応能力の向上を支える基幹システムであることを明らかにした。運動や機械的刺激は、適切・適度に行えば”良いストレス“であり、とくにミトコンドリアの活性の高い抗重力筋の発達を促す。ほとんどの生活習慣病や加齢で増加する神経疾患の予防戦略の要となることが明らかにされつつある。重力場で立位歩行を獲得してきたヒトでは、不安定な姿勢故、安定化を求めて開発してきた動作もまたこの抗重力活動である。